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     ここは新潟でボードゲームを楽しむ人達のための集会所です。

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 先日日本の老舗ボードゲームショップ「メビウス」さんの20周年記念イベントで、あの世界的なボードゲームデザイナーであられるクニツィア博士が来日されました(らしいw)。実際にそのイベントには参加できなかったので(県内の他サークルさんの月例会に参加してましたw)、数ある影武者の存在をうたわれる氏が、はたして本物であったかどうかについては確認できないのですが(笑)、まぁ冗談はこの辺にして、多数の参加者にみまわれて大盛況だったというこのイベント。これは10年前なら全く考えられなかったことですし、その間のボードゲームシーンの推移を思うと、本当に素晴らしいことだと感じ入りました。

 今回はそんな日本で熱狂的なファンを多く抱えるクニツィア博士に敬意を表して、「○○追いという美学」というテーマでコラムを捧げたいと思います。

 もともとボードゲームマニア。特にコレクターとまで呼べるような方には「○○追い」という買い方をされている方がおられます。自分の好みに合わせて、特定の作品を狙い打ちする購入の仕方ですね。

 一般的には

1.特定のメーカーの新作はとりあえずポチる。

 やり方と

2.好きなデザイナーの作品は何でも買いあさる。

 の2種類が王道と呼ばれるものでしょうけど、その中でも圧倒的に多いのが後者の「好きなデザイナー追い」と呼ばれるものといえるでしょう。

 これはもう一般的な「好きなアーティスト」とか「好きな作家」とかと同じレベルで、「このデザイナーなら(あるいはこのメーカーなら)間違いなく面白い作品であろう」という確固たる「期待」が根っこにあって、一度ファンになったからには、「追えば追うほどその愛が深まる」という傾向にあり、また同時に「コレクター欲も満たしてる」ので、個人的には非常に好ましい傾向であると思ってます。

 なおこの辺の心理は、心理学的には「執着心」や「独占欲」と深いかかわりがあるようですが、一種の「自己アイデンティティの確立」という側面もあって、なかなかどうしてそういう心理になるかの分析は専門家でないと難しい側面があります。

※余談ですが、一時期バネスト店長の中野さんと「マニア」と「フェチ」とその他諸々とで、どれが一番最強かみたいな話で盛り上がったことがあります(笑)。この辺のコアな話に関しては、バネストに足をお運びの皆様は、是非直接バネさんに聞いてみてください(店が忙しくなければほぼ100%喰いついてこられますからw)。

 やがて「○○が好き」という概念は、ともすると平凡にただただ新作を遊び続けることになるボードゲームライフに華やかな彩りを与えてくれますし、またこの趣味にかかわらず「なにそれというメーカー(レーベル)が好き」とか「だれそれというデザイナー(アーティスト)が好き」という会話は、その人の「パーソナリティ」を表すものとして機能してくることで、これまた人間関係の豊かな交流には欠かせないものになるでしょう。

 一方で、問題点は無いのかといわれると、その辺は少し微妙でして・・・^^;

 やはり何かの対象を「追っている」ときというのは、その対象に対する「無償の愛を捧げている」わけでもありまして、その対象物の価値そのものが、「その追っている人」にとっては多少「上方修正される」といいますか、あくまでも1つの例として、一般的にそれほど価値が高いとは思えないものであっても、より価値の高いものに「感じてしまう」傾向があると思います。

 これを私は「盲目的評価」と呼んでいるのですが、いわゆる「○○好き」と呼ばれている方(あるいは自称しておられる方)のその対象物に対する評価に関しては、(予防線という意味で)1つ割り引いて見るようにはしております。

 しかしこの「盲目的」な部分こそ、まさに「○○追いの美学」であるとも同時に思うわけでして、やはりそれだけの「愛」を捧げられる対象物であるという評価は、これはゆるがないものとして認知できるといえるでしょう。あとはそれを客観的に見た側の方で、自分自身との擦り合わせをどう上手く処理するかの問題ですね。

※少し話はズレますが、「○○追い」をなされている方の「反盲目的評価」は、個人的に非常に価値が高いものと考えております。「ファンであるからこその苦言」、「マニアであるからこその指摘」というのは、なかなか「愛」が邪魔をして難しい作業になってしまいますが(爆)、これはもう間違いなくレビューの中でも最上級に位置するほどの価値あるものと認識しております(あくまでも「愛」が感じられないと意味がないのですけどね^^;)。

 ところで「追われるほどの有名デザイナー」といえば、古くは「シド」や「トイバー」、「クラマー&キースリング」や「クニツィア博士」などもそうですね。最近ですと「フェルド」や「ワレス」、「フリーゼ」なんかも追っているファンは多いことでしょう。

 「追われる立場」にある方に共通する部分というのは、やはりそれだけの実績があるのは当然として、同時に「追うほどの作品を継続的に世に送り出す」といういわゆる「多作ぶり」も示さなければならず、これはもう一握りの天才に課せられた一種の「使命」でもあるわけですけど、これが非常に「茨の道」でもありまして、どんなに天才でも「毎回毎回傑作はモノにできない」という部分はどうしても避けられません。

 ですので、毎度毎度

「やっぱ○○は最高だよなぁ~♪」

 という「○○追いの最高の感想」を追い求めて今日もまた新作の蓋を開けるわけですが、毎回コレを感じられている時期というのは、本当に幸せがずぅ~っと続くので、どんどん「愛が盲目的w」になっていくわけですけど、その頻度が減る度に欲深いファンは、「自分の愛の深さ」を再確認させられることになるんですよね(笑)←まぁ私のことですけど^^;

 最後に「○○追い」の理由が、ちょっとあいまいな方がたまにおられるという話をしておきます。「自分は○○というデザイナーが好きなんですよね」という話はまぁこの趣味を続けていれば良く聞く話だとは思いますけど、「へぇ~○○のどの辺が好きなのですか?」と伺うと、「面白い作品を作るから」という抽象的な理由が前面に出てきてそこで会話が終了してしまい、いまいちピンとこないときが結構あります。

 まぁこの辺のファンが自分の好みを上手く説明できないってのも何となくは分かるのですが(別に好きなものは単に好きなんですからね^^;)、逆に上手く理由を聞かされたときは「なるほどこの人はそういうタイプの作品が好きなんだな」というのが良く分かって、それ以降何か別の作品をオススメしたり、あるいは例会に用意する作品を選んだりするときに非常に参考になったりします。

 これは同時に逆のパターンのときにもいえることでして、実際に「○○嫌い」というケースもあるのですが、その嫌いな理由がやはりあいまいという場合も結構あります。単にその特定の作品が嫌いなだけなんじゃないの?という部分は否めず、まぁでも滅多にないレアケースですから気にもしませんけど(爆)。

 物事流行廃りは当然でして、どんなものでもいつかは飽きられる時が来るものですが、一般的に「新作追い」で闇雲に作品を貪るのも1つの方法ですが、その中で対極的に存在しながらも、また同時に特定の対象物を追い続ける「○○追い」というものの美学が残っているうちは、私はその趣味は安泰なのではなかろうかとさえ考えております。

 皆さんも「○○追い」を目指してみるのはいかがでしょう?byタカハシ
 今回はコラムではなくショートショートです。

 実際にはありえないけど、ボードゲームを遊ぶ際に、もしもこういったものが無かったらどうしよう・・・という単なるネタ話。

 なんか昭和のドリフみたいですね(古っ^^;)。

1.もしもボードが無かったら

 カードゲームがあるだろう?みたいな答えはつまらない。

 イメージでボードを想像しながら、仮にコマを置いてみようではないか。大体この辺で・・・たしかこの辺は自分の陣地だったはず・・・。

 おやおや頑張ればもしかしたらゲームが成立するかも?

 ところであなたの点数は今何点?

2.もしもテーブルがなかったら

 いやいや床の上でもボードゲームは遊べますよ。

 そもそも昔『人生ゲーム』とかは床置きで遊んでいたではありませんか。

 なんならライブ(野外)でも大丈夫!

 あぁ~私の手札や所持金(お札)が風で飛んでいゆく~><

3.もしも色がなかったら

 困りましたねぇ~。

 ちょっとアナタ!それは私のコマですよ!!

 もうどれがどれだか分からなくなってしまった。あれ?『コロレット』なんかはカードを取ればとるだけ失点じゃないですか(笑)。

 「色」がなくても成立するゲーム(ワードゲームやアクション系の作品)もたくさん存在するので、おとなしくそういう作品を遊ぼう。

4.もしも対戦相手がいなかったら

 ボードゲームを趣味にする以上。同好の人々はもはや運命共同体。なくてはならない存在で、ある意味恋人みたいなものだ。

 一人で『バックギャモンボード』を動かすには、人生はあまりにも長い・・・

 ソロプレイの楽しさももちろんあるが、こうなったら人工知能でも開発して、むりやり相手を作り出す以外にないか!?

5.もしも休日がなかったら

 平日に遊べばよい。ボードゲーマーなら「有給」をゲームために使うのは当たり前(嘘)。

 ただそれだけのこと。

 でも平日だとなかなか予定が合わないんだよな><

6.もしもインターネットがなかったら

 いろんな場所で、いろんな作品が遊ばれ、もしかしたら今よりも更に豊かな文化が生まれるのかもしれない。

 しかしその一方で、仲間同士が集まるのが難しくなり、また普及も思うように進まないだろう。

 今現在私たちが簡単に得られる情報が、本来はどのように苦労して得られるべきものなのかを再確認するのは、実はとても重要なことだ。

7.もしも会話がなかったら

A「・・・・・」

B「・・・・・・・・」

A「・・・・・・・・・・・」

C「・・・・・・・・・・・・・・」

 今誰の手番?

8.もしもボードゲームショップがなかったら

 きっと個人輸入をするだろう。

 昔に比べたら、いまではかなり簡単に(個人輸入が)できる時代になった。ルール訳は自力で頑張るか、ネットのどこかに公開されるのを期待しよう。

 もっと頑張る人は自分でお店を作るかもしれない。

 きっと繁盛するだろう♪

9.もしもゲーム終了条件がなかったら

 何これ凄く面白いゲームだね!!

 暫くすると、誰かが気づく。

 「誰だ!こんなゲームを遊ぼうっていったのは!」

10.もしも笑いがなかったら

 そんなものはボードゲームではない。

 セッションが始まる前、最中、そして終わった後。

 そのいずれか(あるいは全部)に「笑い」があって欲しい。

 決して大笑いでなくて良いから、少しでも笑顔を増やせるツールであって欲しい。
 将棋や囲碁、海外ですとそれは主にチェスとかになるのでしょうか、いわゆる「対戦型」と呼ばれる1対1の作品に比べて、一般的なドイツゲームは3人以上のプレイヤーを対象としているケースが多く、またそれが1つの大きな(魅力的な)特徴でもあるのですが、ある作品が複数人で遊ばれることを前提とした場合、ごくまれに「適正人数」という概念が発生します。

 いわく、この作品に関しては「3人プレイが望ましい」とか、「最低でも4人以上でのプレイを推奨」とか、箱の表示には○人~○人までと記載されていても、実際には必ずしもそこまでの幅が無かったりするケースがあります。

 例えば、3すくみの状態が非常に歪な状況を生む作品。具体的には一方のプレイヤーが他方のプレイヤーを攻撃した場合(あるいは積極的に行動したような場合)に、残りのプレイヤーが漁夫の利的に大きなアドバンテージを得てしまうようなケースは、結果としてお互いに激しく牽制しあうような環境となってしまい、バランスが悪いと評価されるケースがあります。

 また、良くある別の例としては、人数が少数の場合にプレイヤーの自由度があまりにも高すぎた結果、非常に大味な展開や運ゲームになってしまうケースや、逆に人数が多すぎた場合に、プレイヤー間のインタラクションが煩雑すぎて、これまたゲーム本来のポテンシャルが引き出されないケースなどもあります。

 もちろん箱にプレイ人数を記載するわけですから、ある程度のテストプレイが重ねられた上でのそれだということは当然なのですが、中には「単にその人数でプレイできる(可能)」というシンプルな意味しか込められておらず、実際にはその人数でのプレイでは、あまり作品の面白さを堪能することができないという事実が存在する場合があります。

 そうすると、では一体どんな問題が生ずるのか。

 まず最初に考えられるのは

「適正人数でのプレイに拘るプレイヤーが現れる」

 というものが挙げられるでしょう。

 それまでのレビューや巷での評判等から、「この作品はもう○人プレイ専用ゲーム」という固定概念に縛られるプレイヤーが現れる結果、それ以外の人数でのセッションの成立する可能性が激減するケースが考えられます。各種のオープンな例会等である作品にリクエストがかかった場合、仮に4人のプレイヤーがプレイの希望を出しても、それが3人プレイや5人プレイを推奨する作品であった場合に、適正人数ではないからという理由でそのセッションが成立しないケースも考えられます。

 私個人の意見としては、「適正な人数(と思われるもの)」を事前に告知することは、決して悪いことであるとは考えておりません。むしろ楽しいセッションを成立させるためには非常に有用な情報であるとすら思います。しかしその一方で、適正人数でないからといって1つの作品のセッションを不成立にするということが正しいことかどうかに関しては、ケースバイケースで判断すべき事項だと思います。

 その時のメンバーの状況、他の候補作との比較等も含めて、その作品が○人までプレイ可能であるのであれば、その「~まで可能」という部分を尊重するというのも1つの方法ですし、また逆に思い切って尊重しないのも1つの方法だと思います。いずれにせよ一番重要なのは「適正人数じゃないからきっとつまらないだろう」という安易なフィルター(先入観)を最初からかけるべきではないということでしょうね。

 次に考えられるのは

「適正人数以外でのプレイのみで終わってしまう」

 というものです。

 昨今のノンリプレイ主義の蔓延に伴って、最初のプレイが実は適正と言われる人数でのセッションではなかったような場合。その作品に対する印象があまり良くないまま記憶に残ってしまった結果、早々に「この作品はあまり面白くない」という結論に到達してしまって、そのままリプレイの可能性が閉ざされてしまうケースが考えられます。

 不思議なことにドイツゲームというものは実に様々な表情を持ってます。その時の面子、(精神面も含めた)体調、あるいはロケーションみたいなものも含めて、同じセッションは2つとありません。そのどれもに独自の面白さが必ず存在し、我々ファンを魅了し続けます。

 そしてその表情の変化の1つに、プレイ人数の変化も挙げられるわけです。実際にプレイ人数が変わっただけで面白さが劇的に増すような作品に、私自身過去に何度も遭遇してきました(たまぁ~に運悪く逆のケースもありますけどね^^;)。

 普段多くの作品に触れていると、たまに「これはちょっとどうなんだろう?」という作品に遭遇することがありますが、そういう場合には、私はまず「もしプレイ人数が変化した場合どうだろうか?」ということを真っ先に想像するようにしてます。

 よく「1つの作品をどれだけ遊んだら元を取ったことになるか」という質問がありますが、私は(あくまでも1つの基準として)「箱に書かれているプレイ可能人数の回数だけ回したら1順目」というように答えるようにしてます。つまり2~4人までというのであれば2人プレイで1回、3人プレイで1回、4人プレイで1回の合計「3回」ということですね。なかなかこれは時間的にも厳しい縛りなのですが、やはりそこまでして初めて「元が取れている」。あるいは「正しくその作品に触れられている」といえるのではないでしょうか。

 最後に

「レビューの不確定性」

 というのも挙げておきたいです。

 今まで述べてきたように、ドイツゲームはプレイする人数によって時に大きく表情を変えることがあります。ですから、ある作品に対してプレイレポート(あるいは個人的な評価等)を寄せる場合には、「何人でプレイした上でのもの」であるのかは、これは是非載せていただきたい項目といえるでしょうね。

 むしろその情報を抜きにしたものに関しては、これはもう片手落ちに近いものといっても良いでしょう。単に「面白かった」、あるいは「つまらなかった」という情報のみでも、もちろん有用は有用ですけど、はたして本当にその情報を参考にして良いものかどうかに関しては、私はその精度は決して高くない可能性があると思うわけです。

 逆にいえば、「もしこれが○人プレイだったら・・・」みたいな感じで、実際に行われた過去のセッションと比較しながら、(人数面での変化に伴う)感想が書かれているような記事は、これは実に読み応えのあるものです。また普段では考えられないような人数でのプレイのレポートとかにも大きな魅力を感じます。

※余談ですが、私自身の大まかな基準では、プレイ人数は少なくなればなるほど作品の魅力は増すというものがあります(もちろんそれに該当しない場合も多々あります)。ですので、大人数でのプレイで面白かったという感想が挙げられた作品に関しては、私の中では注目度のプラス修正がかかる感じです(笑)。

 是非ボードゲームにおける「プレイ人数」という概念。それに関して必然的に生じる「適正」という部分には、是非皆さん意識的に注目をしてみてください。そうすることでまた1つ、新たに違った角度から作品を眺められることになるはずですから。byタカハシ
 暫く更新をサボっていたら、また広告が出てるようですので、以前(昨年)に途中まで書いていたコラムをUPします。

 先日某メーカから、サンプル品としてボードゲームが送られてきました。是非皆さんで遊んでみてくださいとのことで、こういったサービスがはたして本当に有効な手段かどうかは分かりませんが、多くの方に実際に手に取っていただく機会を増やす、またマニアの発信ソースに乗せてもらうという広告的な面からは、一定のセールス効果があるのかもしれません。

 ところで、今回は「デザイナーの矜持」というのがテーマです。

 今回送られてきた作品は、実際にサークルの月例会でも遊ばせていただきましたし、送っていただく前にメーカさんにあらかじめ承諾を得ていたとおり、ウチからOASE新潟さんにそのまま渡して、そちらでも遊んでいただいたわけですが、そこで出た率直な感想、あるいは意見をもとに、私自身のそのゲームに対するレビューと、同時にえらく痛感させられたことを今回は述べたいと思います。

 作品の名前は『狼が来た!』。デザイナーは日本のボードゲームデザイナーの大御所であられる鈴木銀一郎大先生です。

 テーマは「ブラフ&ビット」、サイコロとダイスカップを用いるということで、ちょっとドイツゲームをかじった人であれば、誰しもが年間ドイツゲーム大賞にも輝いた超名作『ブラフ』を連想する内容です。「今更鈴木先生がブラフの亜種をデザイン!?」。最初に頭によぎったフレーズはまさにコレでした。

 ところが、実際にプレイをしてみると、この作品には立派なオリジナリティがあることにハッとさせられます。『ブラフ』では1つの期待値をもとに、多少の増減はありますが(振り直しのルールがあるため)プレイヤー同士のブラッフィングが見事に表現されてますが、こちらの作品ではその「期待値」自体がゲームの進行とともに変化するというカラクリを持ってます。その結果、プレイ感は『ブラフ』とは全く異なり、新しい刺激を味わうことができました。さすがは銀一郎大先生だと思いました。

 しかしその一方で、ゲームバランスはちょっと悪そうに見えました。ゲームの終了条件、あるいは勝利条件から、かなり攻撃色の強いデザインに仕上がっていて、「自分が」「誰を」「攻撃しても良いかどうか」を常に判断していかないといけないので、ゲームのシステムを良く理解できていない人が一人でも混じっていると、なんだかなぁ~という展開になりがちでした。でもそれを差し置いても独特のプレイ感を表現する手腕はさすがの一言です。

 あとは、コンポーネントの酷さ。これはちょっといただけなかったですね。いくらなんでもダイスカップに紙コップは酷すぎます><個人的な意見で恐縮ですが

シンプルなゲームこそ、コンポーネントは立派に!

 これはドイツゲーム文化の神髄でもあると思うんですよね。『ブラフ』がなぜ素晴らしいかといえば、もちろんあの芸術的なシンプルなデザインもさることながら、ダイスカップとサイコロのバランスが絶妙だからです。味噌汁のお椀を小さくしたようなあのプラスチックの形状が、手のひらにすっぽり収まって、何とも言えないプレイ感を味あわせてくれるのです(同じシステムの『ライアーダイス』はダイスカップが通常のコップ形なんですよね、だからいまいちプレイしたくならない)。自分も、自分の周りにいるプレイヤーもそうなんですが、コンポーネントがしょぼい時点でプレイするに値しないとすら考える人は結構います。

 コンポーネントは、メーカの作品に対する愛ですよね。愛が足りない作品を、いくら送りつけても、気持ちは伝わらないのではないでしょうか?

ただ遊べればそれで良いわけではない!

 これは結構重要だと思います。

 あと、今回一番言いたいこと(言いたくなったこと)ですけど、鈴木先生ほどの大先生ですから、当然プライドもあるのでしょうけど、今回レベルのアレンジ作品を世に送り出すのであれば、せめて「デザイナーズノート」を付記していただきたかったです。

 「この作品は『ブラフ』という名作ゲームを、独自にアレンジしたものです」と、一言でも良いですからどこかに明記していただきたかった。そうでないと、せっかくここまで見事なアレンジを効かせているのに、逆に「単なるパクリ」といういらぬ誹りを受けてしまう可能性を残すのは非常にもったいないです。まさか鈴木先生ほどのお方が『ブラフ』を遊んでいないとは思えませんし・・・。

 昨今、同人ゲームが人気のシステムを搭載して話題になることもしばしばありますが、パクリ作品とまではいかないにせよ、単純な(テーマを変えただけのような)アレンジ作品、安易なシステムの流用、寄せ集め的なデザインが目につきます。

 もちろんボードゲーム界の名デザイナーと呼ばれる人たちも、毎回毎回オリジナルは難しいですし、システムの一部流用やアレンジも当然しますが、やはり流用したり、インスパイアを受けた場合には、どこかにきちんと明記すべきでしょうね。

基本的にはオリジナルなアイデアで勝負!

 それこそがデザイナーの矜持だと思いますが、それから外れる際(他のアイデアを拝借し、あるいは加工する際)に、どれだけ元のアイデア(デザイナー)に誠意を示せるかも、これまた力量の1つなのではないかなと。そう思います。byタカハシ
 最近『お化け屋敷ゲーム』の最新版が出たという話を聞きました。

 なんでもスマートフォンを中央に配置して、色々なイベントをそれで盛り上げるギミックになっているとか。

 かくいう私も、子供の頃に『お化け屋敷ゲーム』に魅せられた1人でして、当時は年に1度夏休みに親戚同士で集まる際に、従兄妹の拓ちゃん(いまでは立派な脳外科医になられました)が持ってきてくれるこのゲームが、本当に楽しみで仕方がありませんでした。

 なんとも言えない独特の雰囲気を持つカードイラスト。妖怪やお化けだけではなく、知恵と勇気と力のカードに変な動物の絵が描かれていたりとか、太陽カードとかの怪しげな表情とか、例えは変かもしれませんけど江戸川乱歩の少年探偵団の世界に迷い込んだようなちょっと隣にある異世界に入り込んだ気分にさせられたものです。

 今思うととんでもなくゲームバランスは悪くて、なかなか部屋に入れなかったりとか、梯子を外されたりとか、ふりだしに戻されたりとか、全員集合カードで一気にリードがなくなったり(笑)とかした記憶がりますけど、当時は従兄妹会の中でも自分が最年少ということもあってか、他のプレイヤーに翻弄されて本当にいつまでも出られない「お化け屋敷」の中にいるような感じで、それがまた逆にたまらない魅力があって、ホント夢中で遊ばせてもらったものです。

 またこの作品は発売当時から品薄で、長い間絶版状態にありました(一時ヤフオクでプレミアがついていたことも)。きっと私と同じように当時夢中でこの作品を遊んだ人にしてみたら、幼い時の夢中で遊ぶという宝物のような体験が詰まった思い出として、いわば「伝説のゲーム」として強く記憶に残り続けていたことでしょう。数年前に長らく絶版だったこの『お化け屋敷ゲーム』は晴れて復刻され、前述のとおりオークションでアホみたいなプレミアが付く状況からはひとまず開放されましたが、ただし再びこの作品を手にした方が、当時のその宝物のような体験を再度味わえたかについては定かではありません。

 私自身は、当時の思い出を超えることはないだろうという予想、あるいは前述のゲームバランスの悪さから、ドイツゲームを知った今となっては、良い思い出は思い出のまま眠らせておくのが良いと思い、「復刻版」にはあえて手を出しませんでした。案の定、手を出した方たちからは「やはり昔のゲームだね。バランス悪いし、今となっては遊ぶ価値薄いよ」という感想を伺ったりもしましたから、どうやらその判断は間違ってはいなかったようです。

 そこに来て、この最新版の登場というニュースです。

 正直、発想やアイデアは素晴らしいと思います。

 アナログに最新のデジタルを上手く融合させる。ちょっと考えただけでもわかりやすい演出等で盛り上がる風景が浮かびます。またゲームバランスにもかなり調整があったようで、新旧「お化け屋敷ゲーム」ファンを唸らせる部分は多かったのではないでしょうか?

 しかし、私の素直な感想は

「結局そっちにいっちゃったかぁ~><」

 です。

 1つは、アナログを最後までアナログとして昇華できなかったということ。

 もう1つは、結局わが国内では、「ボードゲーム」は「すごろく」から抜け出ていないことを再認識させられたということ。

 前者は、なにもアナログにデジタルが入ることが「悪」だとまでは言いません。実際に海外のボードゲームでも音源をデジタルに求めて高い評価を得ている作品もありますし、なにより今回のスマートフォンを利用するというアイデアは画期的だとすら思います。特に最近ではアプリでアナログゲームを楽しむ方も増えてますから、ある意味でこれは必然の流れだったのかもしれません。

 しかし、できれば限界まで「アナログ」にはこだわって欲しかったという思いがどうしても私の中にはあります。それは今なおアナログのまま面白い作品を世に出し続けているドイツゲームという趣味に携わっているからかもしれません。中途半端にデジタルを入れて欲しくない。その昔「お化け屋敷ゲーム」の続編として数年後に「ニューお化け屋敷ゲーム」が発売されたのですが、やはり「デジタル」とまではいかないせよ、機械装置のギミックが使われてて、大きくその雰囲気を損ねており、かなりガッカリした思い出がありますが、それに近いものが今回の最新版にも少なからず当てはまった気がします。

 後者は、これは否定的な面よりも悲観的な面の方が大きいです。今回の最新版はたぶん面白いのでしょう(あくまでもたぶんですけど^^;)。でも、面白いからこそ、結局わが国では『人生ゲーム』や『お化け屋敷ゲーム』みたいな「すごろく」こそが「ボードゲーム」のスタンダードという、まさしく「ふりだしに戻る」みたいな印象を私は受けてしまいました。

結局もう30年近く国内のボードゲーム文化は歩みを止めたままなのだろうか・・・。

 多くの同人ゲームが海外の作品に触発されて発売される時代に、いまだに「お化け屋敷ゲーム」を回顧せずにはいられない。アナログなゲームを遊ぶという点では、『お化け屋敷ゲーム』も『ドイツゲーム』ももちろん同じものですが、その楽しみ方の過程というか、面白さのツボに関しては、「ドイツゲーム」の方が確実に1歩上をいっているという印象がありましたから、今なおここにきて『お化け屋敷ゲーム』の最新版が出る(出てしまう)という事象に対しては、どうしても一抹の寂しさを覚えてしまいます。

 もしかしたら今後デジタル化の流れは『ドイツゲーム』にさえも影響を及ぼしてくるのかもしれません。『ラミーキューブ』のタイマーにアプリを使うような私達は、もしかしたら違和感なくその流れに乗れるのかもしれません。しかし、できれば最後までアナログの火は灯しつづけて欲しい。そう願う私は既に生粋のアナログ人間なのかもしれませんね。byタカハシ